17,18世紀(1601-1800)Publications

番号 72
西暦 1605/ 2/ 3
和暦 (慶長 9 12 16)
震央・M A: N33.5° E138.5° M7.9
B: N33.0° E134.9° M7.9
記事 東海・南海・西海諸道:『慶長地震』:地震の被害としては淡路島安坂村千光寺の諸堂倒れ、仏像が飛散したとあるのみ。津波が犬吠崎から九州までの太平洋岸に来襲して、八丈島で死57、浜名湖近くの橋本で100戸中80戸流され、死多数。紀伊西岸広村で1700戸中700戸流失、阿波宍喰で波高2丈、死1500余、土佐甲ノ浦で死350余、崎浜で死50余、室戸岬付近で死400余など。ほぼ同時に二つの地震が起こったとする考えと、東海沖の一つの地震とする考えがある。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 73
西暦 1611/ 9/ 27
和暦 (慶長 16 8 21)
震央・M N37.6° E139.8° M6.9
記事 会津:若松城下とその付近で社寺・民家の被害が大きく、死3700余。山崩れが会津川・只見川を塞ぎ、南北60kmの間に多数の沼を作った。

▲このページの先頭に戻る

番号 74
西暦 1611/ 12/ 2
和暦 (慶長 16 10 28)
震央・M N39.0° E144.4° M8.1
記事 三陸沿岸および北海道東岸:三陸地方で強震。震害は軽く、津波の被害が大きかった。伊達領内で死1783、南部・津軽で人馬の死3千余という。三陸沿岸で家屋の流出が多く、北海道東部でも溺死が多かった。1933年の三陸地震津波に似ている。[4]

▲このページの先頭に戻る

番号 75
西暦 1614/ 11/ 26
和暦 (慶長 19 10 25)
記事 従来、越後高田の地震とされていたもの。大地震の割に史料が少なく、震源については検討すべきことが多い。京都で家屋・社寺などが倒壊し、死2、傷370という。京都付近の地震とする説がある。

▲このページの先頭に戻る

番号 76
西暦 1615/ 6/ 26
和暦 (元和 1 6 1)
震央・M N35.7° E139.7° (M6¼~6¾)
記事 江戸:家屋が倒壊し、死傷多く、地割れを生じた。

▲このページの先頭に戻る

番号 77
西暦 1616/ 9/ 9
和暦 (元和 2 7 28)
震央・M N38.1° E142.0° (M7)
記事 仙台:仙台城の石壁・櫓等破損。江戸で有感。津波を伴う?

▲このページの先頭に戻る

番号 78
西暦 1619/ 5/ 1
和暦 (元和 5 3 17)
震央・M N32.5° E130.6° M6.0
記事 肥後八代:麦島城はじめ公私の家屋が破壊した。

▲このページの先頭に戻る

番号 79
西暦 1625/ 1/ 21
和暦 (寛永 1 12 13)
記事 安芸:広島で大震。城中の石垣・多門・塀などが崩潰した。島根で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 80
西暦 1625/ 7/ 21
和暦 (寛永 2 6 17)
震央・M N32.8° E130.6° (M5~6)
記事 熊本:地震のため熊本城の火薬庫爆発、天守付近の石壁の一部が崩れた。城中の石垣にも被害、死約50。

▲このページの先頭に戻る

番号 81
西暦 1627/ 10/ 22
和暦 (寛永 4 9 14)
震央・M N36.6° E138.2° (M6)
記事 松代:家屋倒潰80戸。死者があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 82
西暦 1628/ 8/ 10
和暦 (寛永 5 7 11)
震央・M M6.0
記事 江戸・相模東部:江戸城の石垣所々崩れる。戸塚で道路破壊、八王子で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 83
西暦 1630/ 8/ 2
和暦 (寛永 7 6 24)
震央・M N35¾° E139T° (M6¼)
記事 江戸:江戸城の石垣崩れ、塀も破損した。

▲このページの先頭に戻る

番号 84
西暦 1633/ 3/ 1
和暦 (寛永 10 1 21)
震央・M N35.2° E139.2° M7.0
記事 相模・駿河・伊豆:小田原城の矢倉・門塀・石壁ことごとく破壊。小田原で民家の倒潰多く、死150。箱根で山崩れ。熱海に津波が襲来した。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 85
西暦 1635/ 3/ 12
和暦 (寛永 12 1 23)
震央・M N35¾° E139T° (M6)
記事 江戸:長屋の塀など破損。増上寺の石灯篭ほとんど倒れる。戸塚で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 86
西暦 1640/ 7/ 31
和暦 (寛永 17 6 13)
震央・M N42.1° E140.7°
記事 北海道噴火湾:駒ヶ岳噴火に伴い津波があり、死700余、昆布舟流出100余。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 87
西暦 1640/ 11/ 23
和暦 (寛永 17 10 10)
震央・M N36.3° E136.2° (M6¼~6¾)
記事 加賀大聖寺:家屋の損潰多く、人畜の死傷が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 88
西暦 1644/ 10/ 18
和暦 (正保 1 9 18)
震央・M N39.4° E140.0° M6.5
記事 羽後:本荘城廊大破し、屋倒れ、死者があった。市街で焼失が多かった。金浦村・石沢村で被害。院内村で地裂け、水が湧出した。

▲このページの先頭に戻る

番号 89
西暦 1646/ 6/ 9
和暦 (正保 3 4 26)
震央・M N38.1° E140.65° (M6.5~6.7)
記事 陸前・岩代・下野:仙台城・白石城で被害。会津で少々地割れ。日光東照宮で石垣など破損。江戸でもかなり強かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 90
西暦 1646/ 12/ 7
和暦 (正保 3 11 1)
記事 江戸:方々の石垣崩れ、家も損じ、地割れがあった。江戸城の石垣が所々破損した。

▲このページの先頭に戻る

番号 91
西暦 1647/ 6/ 16
和暦 (正保 4 5 14)
震央・M M6.5
記事 武蔵・相模:江戸城や大名屋敷で被害、死者があった。小田原でも城の石垣が崩れるなどの被害。余震が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 92
西暦 1648/ 6/ 13
和暦 (慶安 1 4 22)
震央・M N35.2° E139.2° (M7)
記事 相模・江戸:小田原城破損、領内で潰家が多かった。箱根で落石、死1。江戸で舟のごとく搖れ、瓦落ち、土蔵や練塀の半数が崩れ倒れた。小田原や江戸の大きな被害は疑問とする説がある。

▲このページの先頭に戻る

番号 93
西暦 1649/ 3/ 17
和暦 (慶安 2 2 5)
震央・M N33.7° E132.5° M7.0
記事 安芸・伊予:松山城・宇和島城の石垣や塀が崩れ、民家も破損。広島では侍屋敷・町屋少々潰れ、破損が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 94
西暦 1649/ 7/ 30
和暦 (慶安 2 6 21)
震央・M N35.8° E139.5° M7.0
記事 武蔵・下野:川越で大地震、町屋700軒ほど大破。江戸城で石垣など破損。侍屋敷・長屋破損し、圧死多数。上野東照宮の大仏の頭落ちる。日光東照宮破損。余震日々40~50回。

▲このページの先頭に戻る

番号 95
西暦 1649/ 9/ 1
和暦 (慶安 2 7 25)
震央・M N35.5° E139.7° M6.4
記事 川崎・江戸:川崎駅の民屋140~150軒、寺7宇が倒潰。近くの村で民屋が破倒し、人畜の死傷多数。江戸でも被害。

▲このページの先頭に戻る

番号 96
西暦 1650/ 4/ 24
和暦 (慶安 3 3 24)
震央・M (M6.0~6.5)
記事 日光:江戸・日光で地震強く、日光東照宮で石垣など破損。

▲このページの先頭に戻る

番号 97
西暦 1659/ 4/ 21
和暦 (万治 2 2 30)
震央・M N37.1° E139.8° (M6¾~7)
記事 岩代・下野:猪苗代城の石垣2ヶ所崩れる。南会津の田嶋町で人家297軒など倒れ、死8。塩原温泉一村ほとんど土砂に埋まり、死多数。

▲このページの先頭に戻る

番号 98
西暦 1662/ 6/ 16
和暦 (寛文 2 5 1)
震央・M N35.2° E135.95° (M7¼~7.6)
記事 山城・大和・河内・和泉・摂津・丹後・若狭・近江・美濃・伊勢・駿河・三河・信濃:比良岳付近の被害が甚大。滋賀唐崎で田畑85町湖中に没し潰家1570。大溝で潰家1020余、死37。彦根で潰家1千、死30余。榎村で死300、所川村で死260余。京都で町屋倒壊1千、死200余など。諸所の城破損。大きな内陸地震で、比良断層または花折断層の活動とする説がある。

▲このページの先頭に戻る

番号 99
西暦 1662/ 10/ 31
和暦 (寛文 2 9 20)
震央・M N31.7° E132.0° (M7½~7¾)
記事 日向・大隅:日向灘沿岸に被害。城の破損、潰家多く、死者があった。山崩れ、津波を生じ、宮崎県沿岸7ヶ村周囲7里35町の地が陥没して海となった。日向灘の地震の中でも特に被害が大きかった。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 100
西暦 1664/ 1/ 4
和暦 (寛文 3 12 6)
震央・M M5.9
記事 山城:二条城や伏見の諸邸破損、洛中の築垣所々崩れる。吉田神社・下加茂社の石灯篭倒れる。余震が月末まで続いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 101
西暦 1664/ 8/ 3
和暦 (寛文 4 6 12)
記事 紀伊熊野:新宮丹鶴城の松の間崩れる。和歌山で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 102
西暦 1664/ -/ -
和暦 (寛文 4 - -)
記事 琉球:琉球の鳥島で地震、死1。近くの海底から噴火があったという。津波があった。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 103
西暦 1665/ 6/ 25
和暦 (寛文 5 5 12)
震央・M (M6)
記事 京都:二条城の石垣12~13間崩れ、二の丸殿舎など少々破損。

▲このページの先頭に戻る

番号 104
西暦 1666/ 2/ 1
和暦 (寛文 5 12 27)
震央・M N37.1° E138.2° (M6¾)
記事 越後西部:積雪14~15尺のときに地震。高田城破損、侍屋敷700余潰れ、民家の倒潰も多かった。夜火災、死約1500。

▲このページの先頭に戻る

番号 105
西暦 1667/ -/ -
和暦 (寛文 7 - -)
記事 琉球:宮古島で地震強く、洲鎌村の旱田1210坪約3尺沈下して水田となる。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 106
西暦 1667/ 8/ 22
和暦 (寛文 7 7 3)
震央・M N40.6° E141.6° (M6~6.4)
記事 八戸:市中の建物の破損が夥しかった。津軽・盛岡で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 107
西暦 1668/ 6/ 14
和暦 (寛文 8 5 5)
記事 越中:伏木・放生津・小杉で損家があった。高岡城の橋潰れる。

▲このページの先頭に戻る

番号 108
西暦 1668/ 8/ 28
和暦 (寛文 8 7 21)
震央・M (M5.9)
記事 仙台:仙台城の石垣崩れる。迫町で道割れ、家破損。江戸で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 109
西暦 1670/ 6/ 22
和暦 (寛文 10 5 5)
震央・M N37.7° E139.4° (M6¾)
記事 越後村上:上川4万石のうち農家503軒潰れ、死13。盛岡・江戸でも有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 110
西暦 1671/ -/ -
和暦 (寛文 11 8 -)
記事 花巻:町屋10軒ほど倒れ、庇の落下が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 111
西暦 1674/ 4/ 15
和暦 (延宝 2 3 10)
震央・M N40.6° E141.6° (M6)
記事 八戸:城内・諸士屋敷・町屋に破損が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 112
西暦 1676/ 7/ 12
和暦 (延宝 4 6 2)
震央・M N34.5° E131.8° (M6.5)
記事 石見:津和野城や侍屋敷の石垣などに被害。家屋倒潰133、死7。

▲このページの先頭に戻る

番号 113
西暦 1677/ 4/ 13
和暦 (延宝 5 3 12)
震央・M N41.0° E142¼° (M7Q~7½)
記事 陸中:八戸に震害。1時間後に津波が来て、家屋流潰約60。余震が多かった。1968年十勝沖地震と似ている。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 114
西暦 1677/ 11/ 4
和暦 (延宝 5 10 9)
震央・M N35.5° E142.0° (M8)
記事 磐城・常陸・安房・上総・下総:上旬より地震が多かった。磐城から房総にかけて津波があり、小名浜・中之作・薄磯・四倉・江名・豊間などで死・不明130余、水戸領内で溺死36、房総で溺死246余、奥州岩沼領で死123。陸に近いM6級の地震とする説がある。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 115
西暦 1678/ 10/ 2
和暦 (延宝 6 8 17)
震央・M N39.0° E142.5° (M7.5)
記事 陸中・出羽:花巻で城の石垣崩れ、家屋も損壊、死1。白石城の石垣崩れる。秋田・米沢で家屋に被害。

▲このページの先頭に戻る

番号 116
西暦 1683/ 6/ 17
和暦 (天和 3 5 23)
震央・M N36.7° E139.6° (M6~6.5)
記事 日光:4月5日より地震多く、この日大地震。東照宮の石垣などに被害。北方の山が崩れた。

▲このページの先頭に戻る

番号 117
西暦 1683/ 6/ 18
和暦 (天和 3 5 24)
震央・M N36.75° E139.65° (M6.5~7)
記事 日光:卯刻から辰刻まで地震7回、巳ノ下刻に大地震。石垣・灯篭がほとんど倒れた。夜中までに地震約200回。江戸でも小被害。

▲このページの先頭に戻る

番号 118
西暦 1683/ 10/ 20
和暦 (天和 3 9 1)
震央・M N36.9° E139.7&dedeg; M7.0
記事 下野・岩代:下野の三依川五十里村で山崩れ川を塞ぎ、湖を生じた。会津・日光でも山崩れ、石垣崩れなどの被害。1日、2日で地震760回余、1日から晦日までで1400回余。江戸で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 119
西暦 1685/ -/ -
和暦 (貞享 2 3 -)
震央・M (M6½)
記事 三河:渥美郡で山崩れ。家屋倒壊し、人畜の死が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 120
西暦 1686/ 1/ 4
和暦 (貞享 2 12 10)
震央・M N34.0° E132.6° (M7~7.4)
記事 安芸・伊予:広島県中西部を中心に家屋などの被害が多く、死者があった。宮嶋・萩・岩国・松山・三原などで被害。

▲このページの先頭に戻る

番号 121
西暦 1686/ 10/ 3
和暦 (貞享 3 8 16)
震央・M N34.7° E137.4° (M6.5~7)
記事 遠江・三河:遠江で新居の関所など少々被害、死者があった。三河で田原城の矢倉など破損、死者があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 122
西暦 1694/ 6/ 19
和暦 (元禄 7 5 27)
震央・M N40.2° E140.1° M7.0
記事 能代付近:42ヶ村に被害、特に能代は壊滅的打撃を受けた。全体で死394、家屋崩れ1273、焼失859など。秋田・弘前でも被害。岩木山で岩石崩れ、硫黄平に火を発した。

▲このページの先頭に戻る

番号 123
西暦 1694/ 12/ 12
和暦 (元禄 7 10 26)
記事 丹後:宮津で地割れて泥噴出。家屋破損、特に土蔵は大破損。

▲このページの先頭に戻る

番号 124
西暦 1696/ 6/ 1
和暦 (元禄 9 5 2)
記事 宮古島:府庫・拝殿・寺院・仮屋などの石垣が崩潰した。

▲このページの先頭に戻る

番号 125
西暦 1697/ 11/ 25
和暦 (元禄 10 10 12)
震央・M N35.4° E139.6° (M6.5)
記事 相模・武蔵:鎌倉で鶴ヶ岡八幡宮の鳥居倒れ、潰家があった。江戸城の石垣崩れる。日光で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 126
西暦 1698/ 10/ 24
和暦 (元禄 11 9 21)
震央・M N33.1° E131.5° (M6)
記事 豊後:大分城の石垣・壁など崩れる。岡城破損。佐賀で有感1日に6回。

▲このページの先頭に戻る

番号 127
西暦 1700/ 4/ 15
和暦 (元禄 13 2 26)
震央・M N33.9° E129.6° (M7)
記事 壱岐・対馬:24日より地震、26日の地震で壱岐の村里の石垣・墓所ことごとく崩れ、屋宅大半崩れる。対馬で石垣が崩れるなどの被害。佐賀・平戸などで有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 128
西暦 1703/ 12/ 31
和暦 (元禄 16 11 23)
震央・M N33.25° E131.35° M6.5
記事 豊後:府内(大分)山奥22ヶ村で潰家273、破損369、死1。油布院筋・大分領で農家580軒潰れる。豊後頭無村(現日出町豊岡)で人家崩れ、人馬の死があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 129
西暦 1703/ 12/ 31
和暦 (元禄 16 11 23)
震央・M N34.7° E139.8° (M7.9~8.2)
記事 江戸・関東諸国:『元禄地震』:相模・武蔵・上総・安房で震度大。特に小田原で被害大きく、城下は全滅、12ヶ所から出火、壊家8千以上、死2300以上。東海道は川崎から小田原までほとんど全滅し、江戸・鎌倉などでも被害が大きかった。津波が犬吠崎から下田の沿岸を襲い、死数千。1923年関東地震に似た相模トラフ沿いの巨大地震と思われるが、地殻変動はより大きかった。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 130
西暦 1704/ 5/ 27
和暦 (宝永 1 4 24)
震央・M N40.4° E140.0° M7.0
記事 羽後・陸奥:能代の被害が最大。被害家屋1193のうち倒壊435、焼失758、死58。山崩れが多く、十二湖を生じた。岩館付近の海岸で最大190cm隆起。弘前でも城・民家などに被害があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 131
西暦 1705/ 5/ 24
和暦 (宝永 2 閏4 2)
震央・M N33.0° E131.2°
記事 阿蘇付近:阿蘇で坊の大破や崩れがあったという。岡城で被害があったという。

▲このページの先頭に戻る

番号 132
西暦 1706/ 1/ 19
和暦 (宝永 2 12 5)
震央・M N38.6° E139.9° M5¾
記事 羽前:湯殿山付近のきわめて局地的な小被害地震。家屋の破損や地割れがあった。

▲このページの先頭に戻る

番号 133
西暦 1706/ 10/ 21
和暦 (宝永 3 9 15)
震央・M N35.6° E139.8° (M5¾)
記事 江戸:江戸城や大名屋敷などで多少の被害。

▲このページの先頭に戻る

番号 134
西暦 1707/ 10/ 28
和暦 (宝永 4 10 4)
震央・M N33.2° E135.9° M8.4
記事 五畿・七道:『宝永地震』:わが国最大級の地震の一つ。全体で少なくとも死2万、潰家6万、流出家2万。震害は東海道・伊勢湾・紀伊半島で最もひどく、津波が紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海を襲った。津波の被害は土佐が最大。室戸・串本・御前崎で1~2m隆起し、高知市の東隣の地約20kmが最大2m沈下した。遠州灘沖および紀伊半島沖で二つの巨大地震が同時に起こったとも考えられる。[4]

▲このページの先頭に戻る

番号 135
西暦 1708/ 2/ 13
和暦 (宝永 5 1 22)
記事 紀伊・伊勢・京都:地震い、汐溢れて山田吹上町に至る。宝永地震の余震か?[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 136
西暦 1710/ 9/ 15
和暦 (宝永 7 8 22)
震央・M N37.0° E141.5° M6.5
記事 磐城:平(いわき)で城などに被害。江戸で天水ひるがえるほど。

▲このページの先頭に戻る

番号 137
西暦 1710/ 10/ 3
和暦 (宝永 7 閏8 11)
震央・M N35.5° E133.7° (M6.5)
記事 伯耆・美作:河村・久米両郡(現鳥取県東伯郡)で被害最大。山崩れ人家を潰す。倉吉・八橋町・大山・鳥取で被害。死多数。

▲このページの先頭に戻る

番号 138
西暦 1711/ 3/ 19
和暦 (正徳 1 2 1)
震央・M N35.2° E133.8° (M6¼)
記事 因幡・伯耆:因伯両国で家380潰れ、死4。山崩れや田畠の被害があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 139
西暦 1714/ 4/ 28
和暦 (正徳 4 3 15)
震央・M N36.7° E137.85° (M6¼)
記事 信濃北西部:大町組(大町以北の北安曇郡)で死56、全潰194、半潰141。善光寺でも被害があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 140
西暦 1715/ 2/ 2
和暦 (正徳 4 12 28)
震央・M N35.4° E136.6° (M6.5~7)
記事 大垣・名古屋・福井:大垣城・名古屋城で石垣崩れる。福井で崩家があり、奈良・京都・伊賀上野・松本で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 141
西暦 1717/ 5/ 13
和暦 (享保 2 4 3)
震央・M N38½°deg; E142H° (M7.5)
記事 仙台・花巻:仙台城の石垣崩れる。花巻で破損家屋多く、地割れや泥の噴出があった。津軽・角館・盛岡・江戸で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 142
西暦 1718/ 8/ 22
和暦 (享保 3 7 26)
震央・M N35.3° E137.9° M7.0
記事 信濃・三河:伊那遠山谷で山崩れ、せき止められた遠山川が後に決壊し、死50余。飯田長久寺の唐門倒れた。日光・尾張・江戸でも有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 143
西暦 1723/ 12/ 19
和暦 (享保 8 11 22)
震央・M N32.9° E130.6° M6.5
記事 肥後・豊後・筑後:肥後で倒家980、死2。飽田・山本・山鹿・玉名・菊地・合志各郡で強く、柳川辺でも強く感じた。

▲このページの先頭に戻る

番号 144
西暦 1725/ 5/ 29
和暦 (享保 10 4 18)
震央・M N36.25° E139.7° (M6)
記事 日光:東照宮の石矢来・石灯篭倒れる。江戸でもやや強く感じた。

▲このページの先頭に戻る

番号 145
西暦 1725/ 6/ 17
和暦 (享保 10 5 7)
震央・M N36.4° E136.4° (M6)
記事 加賀小松:城の石垣・蔵など少々破損。金沢で同日4~5回地震。

▲このページの先頭に戻る

番号 146
西暦 1725/ 8/ 14
和暦 (享保 10 7 7)
震央・M N36.0° E138.1°deg; (M6~6.5)
記事 高遠・諏訪:高遠城の石垣・塀・土居夥しく崩れる。諏訪高島城の石垣・塀・門夥しく崩れ、城内外侍屋敷の破損87。郷村36ヶ村で倒家347など、死4。山崩れがあった。江戸・八王子・奈良で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 147
西暦 1729/ 3/ 8
和暦 (享保 14 2 9)
記事 伊豆:大地割れ、川筋に水湧く。下田で家・土蔵傾倒。余震が20日すぎまで続いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 148
西暦 1729/ 8/ 1
和暦 (享保 14 7 7)
震央・M N37.4° E137.1° (M6.6~7)
記事 能登:珠洲郡・鳳至郡で損潰家791、死5、山崩れ1731ヶ所。輪島村で潰家28、能登半島先端で被害が大きかった。

▲このページの先頭に戻る

番号 901
西暦 1730/ 7/ 9
和暦 (享保 15 5 25)
記事 陸前:前日のチリのバルパライソ沖の地震による津波。陸前沿岸で田畑を損じた。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 149
西暦 1731/ 10/ 7
和暦 (享保 16 9 7)
震央・M N38.0° E140.6° (M6.5)
記事 岩代:桑折で家屋300余崩れ、橋84落ちる。白石城で被害。蔵王の高湯や仙台でも被害が多かったという。

▲このページの先頭に戻る

番号 150
西暦 1731/ 11/ 13
和暦 (享保 16 10 14)
記事 近江八幡・刈谷:近江八幡で青屋橋の石垣破損し、刈谷で本城厩前の塀倒れる。

▲このページの先頭に戻る

番号 151
西暦 1733/ 9/ 18
和暦 (享保 18 8 11)
震央・M M6.6
記事 安芸:奥郡に被害、因幡でも地大いに震う。京都・池田・讃岐で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 152
西暦 1735/ 5/ 6
和暦 (享保 20 閏3 14)
記事 日光・守山:東照宮で石垣少々崩れる。守山(現郡山市内)で稗蔵の壁所々割れる。江戸で有感。従来、3月14日とされていたもの。

▲このページの先頭に戻る

番号 153
西暦 1736/ 4/ 30
和暦 (元文 1 3 20)
震央・M (M6)
記事 仙台:仙台で城の石畳や澱橋など破損。余目・江戸で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 154
西暦 1738/ 1/ 3
和暦 (元文 2 閏11 13)
震央・M N37.0° E138.7° (M5½)
記事 中魚沼郡:蘆ヶ崎村(現津南町)付近で14日朝まで80回余、翌年に及ぶ。蔵の壁損じ、釜潰れる。信州青倉村(現栄村)で家蔵破損。

▲このページの先頭に戻る

番号 155
西暦 1739/ 8/ 16
和暦 (元文 4 7 12)
記事 陸奥:南部高森(場所不明)で特に強く、青森で蔵潰れる。八戸で諸士町家ともに被害が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 156
西暦 1741/ 8/ 29
和暦 (寛保 1 7 19)
震央・M N41.6° E139.4°
記事 渡島西岸・津軽・佐渡:渡島大島この月の上旬より活動、13日に噴火した。19日早朝に津波、北海道で死1467、流出家屋729、船1521破壊。津軽で田畑の損も多く、流失潰家約100、死20余。佐渡・能登・若狭にも津波。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 157
西暦 1746/ 5/ 14
和暦 (延享 3 3 24)
記事 江戸・日光:日光東照宮の石矢来約20間倒れる。江戸・八王子・京都・津軽で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 158
西暦 1749/ 5/ 25
和暦 (寛延 2 4 10)
震央・M N33.2° E132.6° M6¾
記事 宇和島・大分:宇和島城で所々破損、矢来大破。大分で千石橋破損。土佐・広島・伊賀・延岡で強く感じた。

▲このページの先頭に戻る

番号 159
西暦 1751/ 3/ 26
和暦 (宝暦 1 2 29)
震央・M N35.0° E135.8° (M5.5~6)
記事 京都:諸社寺の築地や町屋など破損。越中で強く感じ、鳥取・金沢・大阪・池田で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 160
西暦 1751/ 5/ 21
和暦 (宝暦 1 4 26)
震央・M N37.1° E138.2° (M7~7.4)
記事 越後・越中:高田城で所々破損、町方3ヶ所から出火した。鉢崎・糸魚川間の谷で山崩れ多く、圧死多数。富山・金沢でも強く感じ、日光で有感。全体で、死1500以上。余震が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 161
西暦 1755/ 3/ 29
和暦 (宝暦 5 2 17)
記事 陸奥八戸:殿中ならびに外通りに被害。津軽・盛岡で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 162
西暦 1755/ 4/ 21
和暦 (宝暦 5 3 10)
震央・M N36.75° E139.6°
記事 日光:東照宮の石矢来・石垣などに被害。江戸・八戸で被害。

▲このページの先頭に戻る

番号 163
西暦 1756/ 2/ 20
和暦 (宝暦 6 1 21)
震央・M N35.7° E140.9° (M5.5~6)
記事 銚子:蔵にいたみがあった。酒・醤油の桶を揺り返し、石塔倒れる。江戸・八王子・日光で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 164
西暦 1760/ 5/ 15
和暦 (宝暦 10 4 1)
記事 琉球:城墻57ヶ所崩れる。余震があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 165
西暦 1762/ 10/ 18
和暦 (宝暦 12 9 2)
記事 土佐:高岡郡で瓦落ち、山崩れる。16日まで少々ずつ地震。岩国・宇和島・筑後で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 166
西暦 1762/ 10/ 31
和暦 (宝暦 12 9 15)
震央・M N38.1° E138.7° (M7)
記事 佐渡:石垣・家屋が破損、銀山道が崩れ、死者があった。鵜島村で津波により26戸流出。新潟で地割れを生じ、砂と水を噴出。酒田・羽前南村山郡・日光で有感。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 167
西暦 1763/ 1/ 29
和暦 (宝暦 12 12 16)
震央・M N41.0° E142¼° M7.4
記事 陸奥八戸:11月初めより地震があり、この日大地震。寺院・民家が破損した。平館で家潰1、死3。函館でも強く感じた。津波があり、余震が多かった。1968年十勝沖地震と似ているので、もっと沖の大きな地震かもしれない。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 168
西暦 1763/ 3/ 11
和暦 (宝暦 13 1 27)
震央・M N41.0° E142.0° (M7¼)
記事 陸奥八戸:前年12月の地震以来震動とまらず、この日強震。建物の被害が多かった。[0]

▲このページの先頭に戻る

番号 169
西暦 1763/ 3/ 15
和暦 (宝暦 13 2 1)
震央・M N41.0° E142.0° (M7)
記事 陸奥八戸:城の塀倒れ、御朱印蔵の屋根破損。

▲このページの先頭に戻る

番号 170
西暦 1766/ 3/ 8
和暦 (明和 3 1 28)
震央・M N40.7° E140.5° M7¼
記事 津軽:弘前から津軽半島にかけて被害が大きかった。弘前城破損、各地に地割れ。津軽藩の被害(社寺含まず)は、潰家5千余、焼失200余、圧死約1千、焼死約300。余震が年末まで続いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 171
西暦 1767/ 5/ 4
和暦 (明和 4 4 7)
記事 陸中:鬼柳(現北上市)で潰家1、焼失20余。津軽・八戸・盛岡・花巻・羽前南村山郡・江戸・八王子で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 172
西暦 1767/ 10/ 22
和暦 (明和 4 9 30)
震央・M N35.7° E139.8° (M6)
記事 江戸:瓦が落ち、14~15軒潰れ、所々破損があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 173
西暦 1768/ 7/ 22
和暦 (明和 5 6 9)
震央・M N26.2° E127.5°
記事 琉球:王城などの石垣が崩れた。津波が来て、慶良間島で田園と民家9戸を損じた。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 174
西暦 1768/ 9/ 8
和暦 (明和 5 7 28)
記事 陸奥八戸:29日にも2回地震、家屋・塀などの被害が少なくなかった。和賀郡沢内で震動が強かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 175
西暦 1769/ 7/ 12
和暦 (明和 6 6 9)
震央・M N40.6° E141.6°
記事 八戸:御殿通り・外側通りで所々破損、南宗寺で御霊屋など破損。大橋落ちる。

▲このページの先頭に戻る

番号 176
西暦 1769/ 8/ 29
和暦 (明和 6 7 28)
震央・M N33.0° E132.1° M7¾
記事 日向・豊後・肥後:延岡城・大分城で被害多く、寺社・町屋の破損が多かった。熊本領内でも被害が多く、宇和島で強く感じた。津波があった。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 177
西暦 1771/ 4/ 24
和暦 (明和 8 3 10)
震央・M N24.0° E124.3° M7.4
記事 八重山・宮古両群島:『八重山地震津波』:震害はなかったようである。津波による被害が大きく、石垣島が特にひどかった。全体で家屋流失2千余、溺死約1万2千。[4]

▲このページの先頭に戻る

番号 178
西暦 1772/ 6/ 3
和暦 (安永 1 5 3)
震央・M N39.5° E143.5° (M≦7.5)
記事 陸前・陸中:遠野・宮古・大槌・沢内で落石や山崩れ、死12。花巻城で所々破損、地割れあり。盛岡で家屋破壊。江戸など有感。1987年1月9日の地震に似ており、海岸近くのやや深い地震の可能性がある。

▲このページの先頭に戻る

番号 179
西暦 1778/ 2/ 14
和暦 (安永 7 1 18)
震央・M N34.6° E132.0° (M6.5)
記事 石見:那賀郡波佐村で石垣崩れ、都茂村で落石。安芸より備前まで強く震い、筑前で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 180
西暦 1780/ 7/ 20
和暦 (安永 9 6 19)
震央・M N38.9° E139.9°
記事 酒田:土蔵倒れかかって小家1軒潰れ、死2。亀ヶ崎城内で被害。余目・金浦でも小被害。

▲このページの先頭に戻る

番号 181
西暦 1782/ 8/ 23
和暦 (天明 2 7 15)
震央・M N35.4° E139.1° (M7)
記事 相模・武蔵・甲斐:月はじめより前震があり、15日に2度大震。小田原城破損、人家約800破損。箱根・大山・富士山で山崩れ。江戸でも潰家や死者があった。熱海で津波があったらしい。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 182
西暦 1786/ 3/ 23
和暦 (天明 6 2 24)
震央・M N35.2° E139.1° (M5~5½)
記事 箱根:23~24日で地震100回余。大石落ち、人家を多く破った。関所の石垣など破損。

▲このページの先頭に戻る

番号 183
西暦 1789/ 5/ 11
和暦 (寛政 1 4 17)
震央・M N33.7° E134.3° M7.0
記事 阿波:阿波富岡町で文珠院や町屋の土蔵に被害、山崩れがあった。南部の沿岸地方、土佐室津に被害。広島・鳥取・岡山・山口で有感。震央は紀伊水道の可能性もある。

▲このページの先頭に戻る

番号 184
西暦 1791/ 1/ 1
和暦 (寛政 2 11 27)
震央・M N35.8° E139.6° (M6~6.5)
記事 川越・蕨:蕨で堂塔が転倒し、土蔵なども破損。川越で喜多院の本社屋根・瑞籬など破損。

▲このページの先頭に戻る

番号 185
西暦 1791/ 7/ 23
和暦 (寛政 3 6 23)
震央・M N36.2° E138.0° (M6¾)
記事 松本:松本城で塀など崩れる。人家・土蔵も多く崩れた。27日暮までに地震79回。高山・甲府で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 186
西暦 1792/ 5/ 21
和暦 (寛政 4 4 1)
震央・M N32.8° E130.3° M6.4
記事 雲仙岳:前年10月から始まった地震が11月10日頃から強くなり、山崩れなどでたびたび被害があった。4月1日に大地震2回、前山(天狗山)の東部がくずれ、崩土約 0.34kmが島原海に入り津波を生じた。対岸の肥後でも被害が多く、津波による死者は全体で約1万5千、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 187
西暦 1792/ 6/ 13
和暦 (寛政 4 4 24)
震央・M N43¾° E140.0° (M7.1)
記事 後志:津波があった。忍路で港頭の岸壁が崩れ、海岸に引き上げていた夷船漂流、出漁中の夷人5人溺死。美国でも溺死若干。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 188
西暦 1793/ 1/ 13
和暦 (寛政 4 12 2)
震央・M N34.1° E131.5° (M6¼~6½)
記事 長門・周防:防府で人家の損壊が多かったという。

▲このページの先頭に戻る

番号 189
西暦 1793/ 2/ 8
和暦 (寛政 4 12 28)
震央・M N40.85° E139.95° (M6.9~7.1)
記事 西津軽:鯵ヶ沢・深浦で激しく、全体で潰家154、死12など。大戸瀬を中心に約12kmの沿岸が最高3.5m 隆起した。小津波があり、余震が続いた。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 190
西暦 1793/ 2/ 17
和暦 (寛政 5 1 7)
震央・M N38.5° E144.5° (M8~8.4)
記事 陸前・陸中・磐城:仙台封内で家屋損壊1千余、死12。沿岸に津波が来て、大槌・両石で流潰家71、死9、気仙沼で流出家300余。余震が多かった。震央はもっと陸寄りの可能性もある。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 191
西暦 1794/ 11/ 25
和暦 (寛政 6 11 3)
記事 江戸:鳥取藩上屋敷・幕府書物方番所で被害。日光・甲府・矢祭・花巻で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 192
西暦 1796/ 1/ 3
和暦 (寛政 7 11 24)
震央・M N35.7° E134.3° (M5~6)
記事 因幡:岩美町で倉の壁が落ち、石塔倒れ、地下水の異常があった。余震が翌年正月まであった。

▲このページの先頭に戻る

番号 193
西暦 1799/ 6/ 29
和暦 (寛政 11 5 26)
震央・M N36.6° E136.6° M6.0
記事 加賀:上下動が激しく、屋根石が1尺も飛び上がったという。金沢城で石垣破損、城下で潰家4169。能美・石川・河北郡で損家1003、潰家964。全体で死15。

▲このページの先頭に戻る

ページ最上部へ