16世紀以前(-1600)Publications

番号 1
西暦 416/ 8/ 23
和暦 (允恭 5 7 14)
記事 遠飛鳥宮付近(大和):「日本書紀」に「地震」とあるのみ。被害の記述はないが、わが国の歴史に現れた最初の地震。

▲このページの先頭に戻る

番号 2
西暦 599/ 5/ 28
和暦 (推古 7 4 27)
震央・M (M7)
記事 大和:倒潰家屋を生じた。「日本書紀」にあり、地震による被害の記述としてはわが国最古のもの。

▲このページの先頭に戻る

番号 3
西暦 679/ -/ -
和暦 (天武 7 12 -)
震央・M (M6.5~7.5)
記事 筑紫:家屋の倒潰多く、幅2丈、長さ3千余丈の地割れを生じた。

▲このページの先頭に戻る

番号 4
西暦 684/ 11/ 29
和暦 (天武 13 10 14)
震央・M (M8¼)
記事 土佐その他南海・東海・西海地方:山崩れ、河湧き、家屋社寺の倒潰、人畜の死傷多く、津波来襲して土佐の船多数沈没。土佐で田苑50万余頃(約12km)沈下して海となった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 5
西暦 701/ 5/ 12
和暦 (大宝 1 3 26)
記事 丹波:地震うこと3日。若狭湾内の凡海郷が海に没したという「冠島伝説」があるが、疑わしい。

▲このページの先頭に戻る

番号 6
西暦 715/ 7/ 4
和暦 (霊亀 1 5 25)
震央・M N35.1° E137.8° (M6.5~7.5)
記事 遠江:山崩れが天竜川を塞いだ。数十日後決壊、民家170余区が水没した。

▲このページの先頭に戻る

番号 7
西暦 715/ 7/ 5
和暦 (霊亀 1 5 26)
震央・M N34.8° E137.4° (M6.5~7)
記事 三河:正倉47破壊、民家に陥没したものがあった。

▲このページの先頭に戻る

番号 8
西暦 734/ 5/ 18
和暦 (天平 6 4 7)
記事 畿内・七道諸国:民家倒潰し圧死多く、山崩れ、川塞ぎ、地割れが無数に生じた。

▲このページの先頭に戻る

番号 9
西暦 745/ 6/ 5
和暦 (天平 17 4 27)
震央・M N35.4° E136.5° (M7.9)
記事 美濃:櫓館・正倉・仏寺・堂塔・民家が多く倒潰し、摂津では余震が20日間止まなかった。

▲このページの先頭に戻る

番号 10
西暦 762/ 6/ 9
和暦 (天平宝字 6 5 9)
記事 美濃・飛騨・信濃:被害不詳。罹災者に対し1戸につき穀物2斛を賜った。

▲このページの先頭に戻る

番号 11
西暦 818/ -/ -
和暦 (弘仁 9 7 -)
震央・M (M≧7.5)
記事 関東諸国:山崩れ谷埋まること数里、百姓が多数圧死した。従来、津波があったとされていたが、おそらく洪水であろう。

▲このページの先頭に戻る

番号 12
西暦 827/ 8/ 11
和暦 (天長 4 7 12)
震央・M N35.0° E135¾° (M6.5~7)
記事 京都:舎屋多く潰れ、余震が翌年6月まであった。

▲このページの先頭に戻る

番号 13
西暦 830/ 2/ 3
和暦 (天長 7 1 3)
震央・M N39.8° E140.1° (M7~7.5)
記事 出羽:秋田の城郭・官舎・寺社悉く倒れる。家屋も倒潰し、圧死15、傷100余。地割れ多く、河岸の崩れや川の氾濫があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 14
西暦 841/ -/ -
和暦 (承和 8 - -)
震央・M N36.2° E138.0° (M≧6.5)
記事 信濃:墻屋が倒壊した。同年2月13日以前の地震。

▲このページの先頭に戻る

番号 15
西暦 841/ -/ -
和暦 (承和 8 - -)
震央・M N35.1° E138.9° (M7)
記事 伊豆:里落完からず、死者があった。同年5月3日以前の地震。丹那断層の活動によるものか?

▲このページの先頭に戻る

番号 16
西暦 850/ -/ -
和暦 (嘉祥 3 - -)
震央・M N39.0° E139.7° (M7)
記事 出羽:地裂け、山崩れ、国府の城柵は傾頽し、圧死多数。最上川の岸崩れ、海水は国府から6里のところまで迫った。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 17
西暦 856/ -/ -
和暦 (斉衡 3 3 -)
震央・M (M6~6.5)
記事 京都:京都およびその南方で屋舎が破壊し、仏塔が傾いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 18
西暦 863/ 7/ 10
和暦 (貞観 5 6 17)
記事 越中・越後:山崩れ、谷埋まり、水湧き、民家破壊し、圧死多数。直江津付近にあった数個の小島が壊滅したという。

▲このページの先頭に戻る

番号 19
西暦 868/ 8/ 3
和暦 (貞観 10 7 8)
震央・M N34.8° E134.8° (M≧7)
記事 播磨・山城:播磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔ことごとく頽れ倒れた。京都では垣屋に崩れたものがあった。山崎断層の活動によるものか?

▲このページの先頭に戻る

番号 20
西暦 869/ 7/ 13
和暦 (貞観 11 5 26)
震央・M M8.3
記事 三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死約1千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる。[4]

▲このページの先頭に戻る

番号 21
西暦 878/ 11/ 1
和暦 (元慶 2 9 29)
震央・M N35.5° E139.3° M7.4
記事 関東諸国:相模・武蔵が特にひどく、5~6日震動が止まらなかった。公私の屋舎一つも全きものなく、地陥り往還不通となる。圧死多数。京都で有感。

▲このページの先頭に戻る

番号 22
西暦 880/ 11/ 23
和暦 (元慶 4 10 14)
震央・M N35.4° E133.2° (M7)
記事 出雲:社寺・民家の破損が多く、余震は10月22日に至るも止まななかった。この日京都でも強く感じたというがこの地震とは無関係で、規模ももっと小さかったとする説がある。

▲このページの先頭に戻る

番号 23
西暦 881/ 1/ 13
和暦 (元慶 4 12 6)
震央・M M6.4
記事 京都:宮城の垣墻・官庁・民家の頽損するものはなはだ多く、余震が翌年まで続いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 24
西暦 887/ 8/ 26
和暦 (仁和 3 7 30)
震央・M N33.0° E135.0° (M8~8.5)
記事 五畿・七道:京都で民家・官舎の倒潰多く、圧死多数。津波が沿岸を襲い溺死多数、特に摂津で津波の被害が大きかった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 25
西暦 890/ 7/ 10
和暦 (寛平 2 6 16)
震央・M (M6)
記事 京都:家屋傾き、ほとんど倒潰寸前のものがあった。

▲このページの先頭に戻る

番号 26
西暦 934/ 7/ 16
和暦 (承平 4 5 27)
震央・M (M6)
記事 京都:午刻に地震2回、京中の築垣が多く転倒した。

▲このページの先頭に戻る

番号 27
西暦 938/ 5/ 22
和暦 (天慶 1 4 15)
震央・M N35.0° E135.8° (M7)
記事 京都・紀伊:宮中の内膳司頽れ、死4。舎屋・築垣倒れるもの多く、堂塔・仏像も多く倒れる。高野山の諸伽藍破壊。余震多く、8月6日に強震があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 28
西暦 976/ 7/ 22
和暦 (貞元 1 6 18)
震央・M N34.9° E135.8° (M≧6.7)
記事 山城・近江:両京で屋舎・諸仏寺の転倒多く、死50以上。近江の国府・国分寺・関寺(大津市)で被害。余震が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 29
西暦 1038/ -/ -
和暦 (長暦 1 12 -)
震央・M N34.3° E135.6°
記事 紀伊:高野山中の伽藍・院宇に転倒するもの多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 30
西暦 1041/ 8/ 25
和暦 (長久 2 7 20)
記事 京都:法成寺の鐘楼が転倒した。

▲このページの先頭に戻る

番号 31
西暦 1070/ 12/ 1
和暦 (延久 2 10 20)
震央・M N34.8° E135.8° (M6~6.5)
記事 山城・大和:東大寺の巨鐘の鈕が切れて落ちた。京都では家々の築垣に被害があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 32
西暦 1091/ 9/ 28
和暦 (寛治 5 8 7)
震央・M N34.7° E135.8° (M6.2~6.5)
記事 山城・大和:法成寺の仏像倒れ、その他の建物・仏像にも被害。大和国金峯山金剛蔵王宝殿が破壊した。

▲このページの先頭に戻る

番号 33
西暦 1093/ 3/ 19
和暦 (寛治 7 2 14)
震央・M (M6~6.3)
記事 京都:所々の塔が破壊した。

▲このページの先頭に戻る

番号 34
西暦 1096/ 12/ 17
和暦 (永長 1 11 24)
震央・M (M8~8.5)
記事 畿内・東海道:大極殿小破、東大寺の巨鐘落ちる。京都の諸寺に被害があった。近江の勢多橋落ちる。津波が伊勢・駿河を襲い、駿河で社寺・民家の流失400余。余震が多かった。東海沖の巨大地震とみられる。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 35
西暦 1099/ 2/ 22
和暦 (康和 1 1 24)
震央・M (M8~8.3)
記事 南海道・畿内:興福寺・摂津天王寺で被害。土佐で田千余町みな海に沈む。津波があったらしい。

▲このページの先頭に戻る

番号 36
西暦 1177/ 11/ 26
和暦 (治承 1 10 27)
震央・M N34.7° E135.8° (M6~6.5)
記事 大和:東大寺で巨鐘が落ちるなどの被害。京都でも地震が強かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 37
西暦 1185/ 8/ 13
和暦 (文治 1 7 9)
震央・M N35.0° E135.8° (M7.4)
記事 近江・山城・大和:京都、特に白河辺の被害が大きかった。社寺・家屋の倒潰破壊多く死多数。宇治橋落ち、死1。9月まで余震多く、特に8月12日の強い余震では多少の被害があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 38
西暦 1213/ 6/ 18
和暦 (建保 1 5 21)
記事 鎌倉:山崩れ、地裂け、舎屋が破潰した。

▲このページの先頭に戻る

番号 39
西暦 1227/ 4/ 1
和暦 (安貞 1 3 7)
記事 鎌倉:地裂け、所々の門扉・築垣が転倒した。

▲このページの先頭に戻る

番号 40
西暦 1230/ 3/ 15
和暦 (寛喜 2 閏1 22)
記事 鎌倉:大慈寺の後山が頽れた。

▲このページの先頭に戻る

番号 41
西暦 1240/ 3/ 24
和暦 (仁治 1 2 22)
記事 鎌倉:鶴岡神宮寺風なくして倒れ、北山が崩れた。

▲このページの先頭に戻る

番号 42
西暦 1241/ 5/ 22
和暦 (仁治 2 4 3)
震央・M (M7)
記事 鎌倉:津波を伴い、由比ヶ浜大鳥居内拝殿流失、岸にあった船10艘が破損した。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 43
西暦 1245/ 8/ 27
和暦 (寛元 3 7 27)
記事 京都:壁・築垣や所々の屋々に破損が多かった。

▲このページの先頭に戻る

番号 44
西暦 1257/ 10/ 9
和暦 (正嘉 1 8 23)
震央・M N35.2° E139.5° (M7~7.5)
記事 関東南部:鎌倉の社寺完きものなく、山崩れ、家屋転倒し、築地ことごとく破損。地割れを生じ、水が湧きでた。余震多数。同日三陸沿岸に津波が来襲したというが、疑わしい。

▲このページの先頭に戻る

番号 45
西暦 1293/ 5/ 27
和暦 (永仁 1 4 13)
震央・M (M7)
記事 鎌倉:鎌倉強震、建長寺ほとんど炎上のほか、諸寺に被害。死数千あるいは2万3千余。余震が多かった。この日、越後魚沼郡で山崩れあり死多数というも、この地震との関係不明。

▲このページの先頭に戻る

番号 46
西暦 1317/ 2/ 24
和暦 (文保 1 1 5)
震央・M N35.0° E135.8° (M6.5~7)
記事 京都:これより先1月3日京都に強震、余震多く、この日大地震。白河辺の人家悉く潰れ、死5。諸寺に被害、清水寺出火。余震が5月になっても止まなかった。

▲このページの先頭に戻る

番号 47
西暦 1325/ 12/ 5
和暦 (正中 2 10 21)
震央・M N35.6° E136.1° M6.5
記事 近江北部・若狭:荒地・中山崩れる。竹生島の一部が崩れて湖中に没した。若狭国敦賀郡の気比神宮倒潰。京都で強く感じ、余震が年末まで続いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 48
西暦 1331/ 8/ 15
和暦 (元弘 1 7 3)
震央・M N33.7° E135.2° (M≧7)
記事 紀伊:紀伊国千里浜(田辺市の北)の遠干潟20余町が隆起して陸地となった。

▲このページの先頭に戻る

番号 49
西暦 1350/ 7/ 6
和暦 (正平 5 5 23)
震央・M N35.0° E135.8° (M6)
記事 京都:祇園社の石塔の九輪が落ち砕けた。余震が7月初旬まで続いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 50
西暦 1360/ 11/ 22
和暦 (正平 15 10 5)
震央・M N33.4° E136.2° (M7.5~8)
記事 紀伊・摂津:4日に大震、5日に再震、6日の六ツ時過ぎに津波が熊野尾鷲から摂津兵庫まで来襲し、人馬牛の死が多かった。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 51
西暦 1361/ 8/ 1
和暦 (正平 16 6 22)
記事 畿内諸国:この月18日より京都付近に地震多く、この日の地震で法隆寺の築地多少崩れる。23日にも地震あり。次の地震の前震か?

▲このページの先頭に戻る

番号 52
西暦 1361/ 8/ 3
和暦 (正平 16 6 24)
震央・M N33.0° E135.0° (M8¼~8.5)
記事 畿内・土佐・阿波:摂津四天王寺の金堂転倒し、圧死5。その他、諸寺諸堂に被害が多かった。津波で摂津・阿波・土佐に被害、特に阿波の雪(由岐)湊で流失1700戸、流死60余。余震多数。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 53
西暦 1408/ 1/ 21
和暦 (応永 14 12 14)
震央・M N33.0° E136.0° (M7~8)
記事 紀伊・伊勢:熊野本宮の温泉の湧出80日間止まる。熊野で被害があったという。紀伊・伊勢・鎌倉に津波があったようである。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 54
西暦 1425/ 12/ 23
和暦 (応永 32 11 5)
震央・M N35.0° E135.8° (M6)
記事 京都:築垣多く崩れる。余震があり、この日終日震う。

▲このページの先頭に戻る

番号 55
西暦 1433/ 11/ 7
和暦 (永享 5 9 16)
震央・M N34.9° E139.5° (M≧7)
記事 相模:相模大山仁王の首落ちる。鎌倉で社寺・築地の被害が多かった。当時東京湾に注いでいた利根川の水が逆流、津波か?余震が多かった。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 56
西暦 1449/ 5/ 13
和暦 (宝徳 1 4 12)
震央・M N35.0° E135¾° (M5T~6.5)
記事 山城・大和:10日から地震があった。洛中の堂塔・築地に被害多く、東山・西山で所々地裂ける。山崩れで人馬の死多数。淀大橋・桂橋落ちる。余震が7月まで続いた。

▲このページの先頭に戻る

番号 57
西暦 1456/ 2/ 14
和暦 (康正 1 12 29)
記事 紀伊:熊野神社の宮殿・神倉崩れる。京都で強震?

▲このページの先頭に戻る

番号 58
西暦 1466/ 5/ 29
和暦 (文正 1 4 6)
記事 京都:天満社・糺社の石灯篭倒れる。

▲このページの先頭に戻る

番号 59
西暦 1494/ 6/ 19
和暦 (明応 3 5 7)
震央・M N34.6° E135.7° (M6)
記事 大和:諸寺破損、矢田庄(大和郡山の西)の民家多く破損。余震が翌年に及んだ。

▲このページの先頭に戻る

番号 60
西暦 1498/ 7/ 9
和暦 (明応 7 6 11)
震央・M N33.0° E132¼° (M7~7.5)
記事 日向灘:九州で山崩れ、地裂け泥湧出。民屋はすべてこわれ死多数。伊予で地変。同日畿内に地震、被害はなかったらしい。同じ地震であれば震域が広く、震央に変更が必要。

▲このページの先頭に戻る

番号 61
西暦 1498/ 9/ 20
和暦 (明応 7 8 25)
震央・M N34.0° E138.0° (M8.2~8.4)
記事 東海道全般:紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で振動大きかったが、震害はそれほどでもない。津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千など。南海トラフ沿いの巨大地震とみられる。[3]

▲このページの先頭に戻る

番号 62
西暦 1502/ 1/ 28
和暦 (文亀 1 12 10)
震央・M N37.2° E138.2° (M6.5~7)
記事 越後南西部:越後の国府(現直江津)で潰家、死多数。会津でも強く搖れた。

▲このページの先頭に戻る

番号 63
西暦 1510/ 9/ 21
和暦 (永正 7 8 8)
震央・M N34.6° E135.6° (M6.5~7)
記事 摂津・河内:摂津・河内の諸寺で被害。大阪で潰死者があった。余震が70余日続く。

▲このページの先頭に戻る

番号 64
西暦 1517/ 7/ 18
和暦 (永正 14 6 20)
記事 越後:倒家が多かった。史料少なく詳細不明。

▲このページの先頭に戻る

番号 65
西暦 1520/ 4/ 4
和暦 (永正 17 3 7)
震央・M N33.0° E136.0° (M7~7¾)
記事 紀伊・京都:熊野・那智の寺院破壊。津波があり、民家流失。京都で禁中の築地所々破損した。[1]

▲このページの先頭に戻る

番号 66
西暦 1525/ 9/ 20
和暦 (大永 5 8 23)
記事 鎌倉:由比ヶ浜の川・入江・沼が埋まって平地となった。27日まで昼夜地震があった。

▲このページの先頭に戻る

番号 67
西暦 1579/ 2/ 25
和暦 (天正 7 1 20)
震央・M N34.7° E135.5° M6.0
記事 摂津:四天王寺の鳥居崩れ、余震3日にわたる。

▲このページの先頭に戻る

番号 68
西暦 1586/ 1/ 18
和暦 (天正 13 11 29)
震央・M N36.0° E136.9° (M7.8)
記事 畿内・東海・東山・北陸諸道:飛騨白川谷で大山崩れ、帰雲山城、民家300余戸埋没し、死多数。飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害。阿波でも地割れを生じ、余震は翌年まで続いた。震央を白川断層上と考えたが、伊勢湾とする説、二つの地震が続発したとする説などがあり、不明な点が多い。伊勢湾に津波があったかもしれない。

▲このページの先頭に戻る

番号 69
西暦 1589/ 3/ 21
和暦 (天正 17 2 5)
震央・M N34.8° E138.2° (M6.7)
記事 駿河・遠江:民家多く破損し、興国寺・長久保・沼津などの城塀が破壊した。

▲このページの先頭に戻る

番号 70
西暦 1596/ 9/ 4
和暦 (慶長 1 閏7 12)
震央・M N33.3° E131.6° M7.0
記事 豊後:7月3日より前震があり、閏7月11日から多発してこの日大地震。高崎山など崩れる。海水が引いた後大津波が来襲し、別府湾沿岸で被害。大分などで家屋ほとんど流失。「瓜生島」(大分の北にあった沖ノ浜とされる)の80%陥没し、死708という。[2]

▲このページの先頭に戻る

番号 71
西暦 1596/ 9/ 5
和暦 (慶長 1 閏7 13)
震央・M N34.65° E135.6° M7½
記事 畿内:京都では三条より伏見の間で被害が最も多く、伏見城天守大破、石垣崩れて圧死約500。諸寺・民家の倒潰も多く、死傷多数。堺で死600余。奈良・大阪・神戸でも被害が多かった。余震が翌年4月まで続いた。

▲このページの先頭に戻る

ページ最上部へ