20世紀前半(1901-1950)Publications

番号 301
西暦 1901/ 6/ 24
和暦 (明治 34)
震央・M N28° E130° M7.5
記事 奄美大島近海:名瀬市内で石垣崩壊などの小被害があり、小津波があった。[-1]

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番号 302
西暦 1901/ 8/ 9
和暦 (明治 34)
震央・M N40.5° E142.5° M7.2
記事 八戸地方:10日にも同程度の地震(M7.4) があった。青森県で死傷18、木造潰家8、秋田・岩手でも被害があった。宮古に波高60cmの津波があった。[0]

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番号 303
西暦 1902/ 1/ 30
和暦 (明治 35)
震央・M N40.5° E141.3° M7.0
記事 三戸地方:三戸・七戸・八戸などで倒壊家屋3、死1。前の地震の余震か?

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番号 304
西暦 1903/ 8/ 10
和暦 (明治 36)
震央・M N36.2° E137.6° M5½
記事 乗鞍岳西方:道路の崩壊、山崩れがあった。余震が多かった。

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番号 305
西暦 1904/ 5/ 8
和暦 (明治 37)
震央・M N37.1° E138.9° M6.1
記事 新潟県六日町付近:五十沢村・城内村で家屋・土蔵などの破損があった。

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番号 306
西暦 1905/ 6/ 2
和暦 (明治 38)
震央・M N34.1° E132.5° M7¼
記事 安芸灘:『芸予地震』:広島・呉・松山付近で被害が大きく、広島県で家屋全壊56、死11、愛媛県で家屋全壊8。煉瓦造建物・水道管・鉄道の被害が多かった。1903年以来、この近くで地震が多かった。

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番号 307
西暦 1905/ 6/ 7
和暦 (明治 38)
震央・M N34.8° E139.3° M5.8
記事 大島近海:5日から200回以上前震があった。破損家屋3。道路・石垣の崩壊が多かった。

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番号 308
西暦 1909/ 3/ 13
和暦 (明治 42)
震央・M (08h 19m) N34.5° E141.5° M6.7
(23h 29m) N34.5° E141.5° M7.5
記事 房総沖:あとの方が強く、横浜で煙突・煉瓦壁の崩壊などの被害があった。

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番号 309
西暦 1909/ 8/ 14
和暦 (明治 42)
震央・M N35.4° E136.3° M6.8
記事 滋賀県姉川付近:『江濃(姉川)地震』:虎姫付近で被害が最大。滋賀・岐阜両県で死41、住家全壊978。姉川河口の湖底が数十m深くなった。

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番号 310
西暦 1909/ 8/ 29
和暦 (明治 42)
震央・M N26° E128° M6.2
記事 沖縄:那覇・首里で家屋半壊3、死1。

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番号 311
西暦 1909/ 11/ 10
和暦 (明治 42)
震央・M N32.3° E131.1° M7.6
記事 宮崎県西部:宮崎市付近で被害が大きく、宮崎・大分・鹿児島・高知・岡山・広島・熊本の各県に被害があった。大きなやや深発地震で、深さ約150km。従来、日向灘とされていたもの。

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番号 312
西暦 1910/ 7/ 24
和暦 (明治 43)
震央・M N42.5° E140.9° M5.1
記事 有珠山:15日以来地震頻発、この地震で虻田村で半壊破損15、その他でも小被害があった。この約7時間半後、有珠山が爆発した。

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番号 313
西暦 1910/ 9/ 8
和暦 (明治 43)
震央・M N44.2° E141.6° M5.3
記事 天塩鬼鹿沖:沿岸に軽い被害があった。

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番号 314
西暦 1911/ 6/ 15
和暦 (明治 44)
震央・M N28.0° E130.0° M8.0
記事 喜界島近海:有感域は中部日本に及び、喜界島・沖縄島・奄美大島に被害があった。死12、家屋全壊422。この地域最大の地震。[0]

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番号 315
西暦 1912/ 8/ 17
和暦 (大正 1)
震央・M N36.4° E138.3° M5.1
記事 長野県上田町付近:土塀・石垣の崩壊6、その他小被害。

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番号 316
西暦 1913/ 6/ 29
和暦 (大正 2)
震央・M N31.6° E130.3° M5.7
記事 鹿児島県串木野南方:翌日再震 (M5.9)、この方が強かった。両方で家屋倒壊1、非住家倒壊2。地鳴りを伴った。

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番号 317
西暦 1914/ 1/ 12
和暦 (大正 3)
震央・M N31.6° E130.6° M7.1
記事 桜島:桜島の噴火で発生した地震。鹿児島市で住家全倒39、死13、鹿児島郡で死22余。小津波があった。[1]

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番号 318
西暦 1914/ 3/ 15
和暦 (大正 3)
震央・M N39.5° E140.4° M7.1
記事 秋田県仙北郡:『秋田仙北地震』:仙北郡で最もひどく、全体で死94、家屋全壊640。地割れや山崩れが多かった。

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番号 319
西暦 1914/ 3/ 28
和暦 (大正 3)
震央・M N39.2° E140.4° M6.1
記事 秋田県平鹿郡:前の地震の最大余震。沼館町で家屋全壊数戸。

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番号 320
西暦 1915/ 3/ 18
和暦 (大正 4)
震央・M N42.1° E143.6° M7.0
記事 広尾沖:芽室村字美生村と戸蔦村で家屋倒潰、死各1。

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番号 321
西暦 1915/ 11/ 16
和暦 (大正 4)
震央・M N35.4° E140.3° M6.0
記事 房総半島:下香取郡万才村・長生郡西村・その他で崖崩れがあり、傷5、人家・物置の潰れがあった。群発地震で、12日から地震が続いていた。

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番号 322
西暦 1916/ 2/ 22
和暦 (大正 5)
震央・M N36.5° E138.5° M6.2
記事 浅間山麓:山麓で激しく、嬬恋村で山崩れ、家屋全壊7。その他、大笹・大前などで半壊3、破損109、土蔵破損164。

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番号 323
西暦 1916/ 11/ 26
和暦 (大正 5)
震央・M N34.6° E135.0° M6.1
記事 神戸:死1。付近に軽い被害があった。有馬温泉の泉温1°C上がる。

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番号 324
西暦 1917/ 5/ 18
和暦 (大正 6)
震央・M N35.0° E138.1° M6.3
記事 静岡県:死2。煉瓦塀・煉瓦煙突の被害が多かった。志田順による発震機構の先駆的な研究で知られる地震。

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番号 325
西暦 1918/ 9/ 8
和暦 (大正 7)
震央・M N45½° E152° M8.0
記事 ウルップ島沖:沼津まで地震を感じる。津波の波高、ウルップ島岩美湾で6~12m、根室1m、父島1.5m など。ウルップ島で溺死24。

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番号 326
西暦 1918/ 11/ 8
和暦 (大正 7)
震央・M N44½° E150H° M7.7
記事 ウルップ島沖:東京で有感。津波があり、父島で波高50cm。

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番号 327
西暦 1918/ 11/ 11
和暦 (大正 7)
震央・M (02h 59m) N36.5° E137.9° M6.1
(16h 04m) N36.5° E137.9° M6.5
記事 長野県大町付近:『大町地震』:震害があったのは大町及び付近の村で、家屋全壊6、半壊破損2852、非住家全壊16。2回目の方が強かった。大町を中心に15cmほどの土地の隆起があった。

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番号 328
西暦 1921/ 12/ 8
和暦 (大正 10)
震央・M N36.0° E140.2° M7.0
記事 茨城県南部:千葉・茨城県境付近に家屋破損・道路亀裂などの小被害があった。従来、竜ケ崎付近の地震とされていたもの。

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番号 329
西暦 1922/ 4/ 26
和暦 (大正 11)
震央・M N35.2° E139.8° M6.8
記事 浦賀水道:東京湾沿岸に被害があり、東京・横浜で死各1。家屋・土蔵などに被害があった。

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番号 330
西暦 1922/ 12/ 8
和暦 (大正 11)
震央・M (01h 50m) N32.7° E130.1° M6.9
(11h 02m) N32.7° E130.1° M6.5
記事 千々石湾:被害はおもに島原半島南部・天草・熊本市方面。長崎県で死26、住家全壊195、非住家全壊459。このうち2回目の地震による死3。

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番号 331
西暦 1923/ 7/ 13
和暦 (大正 12)
震央・M N30.6° E131.2° M7.1
記事 種子島付近:家屋小破77余、その他小被害。

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番号 332
西暦 1923/ 9/ 1
和暦 (大正 12)
震央・M N35.1° E139.5° M7.9
記事 関東南部:『関東大地震』:東京で観測した最大振幅14~20cm。地震後火災が発生し被害を大きくした。全体で死・不明14万2千余、家屋全半壊25万4千余、焼失44万7千余。山崩れ・崖崩れが多い。房総方面・神奈川南部は隆起し、東京付近以西・神奈川北方は沈下した。相模湾の海底は小田原-布良線以北は隆起、南は沈下した。関東沿岸に津波が襲来し、波高は熱海で12m、相浜で9.3m など。[2]

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番号 333
西暦 1923/ 9/ 1
和暦 (大正 12)
震央・M (16h 38m) N35.5° E138.9° M6.8
記事 山梨県南東部:小被害があった。関東地震の余震。

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番号 334
西暦 1924/ 1/ 15
和暦 (大正 13)
震央・M N35.5° E139.2° M7.3
記事 丹沢山塊:東京・神奈川・山梨・静岡各県に被害があり、死19、家屋全壊1200余。特に神奈川県中南部に被害が著しかった。

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番号 335
西暦 1925/ 5/ 23
和暦 (大正 14)
震央・M N35.6° E134.8° M6.8
記事 但馬北部:『北但馬地震』:円山川流域で被害多く、死428、家屋全壊1295、焼失2180。河口付近に長さ1.6km、 西落ちの小断層二つを生じた。葛野川の河口が陥没して海となった。

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番号 336
西暦 1927/ 3/ 7
和暦 (昭和 2)
震央・M N35.5° E135.2°deg; M7.3
記事 京都府北西部:『北丹後地震』:被害は丹後半島の頚部が最も激しく、淡路・福井・岡山・米子・徳島・三重・香川・大阪に及ぶ。全体で死2925、家屋全壊12584。郷村断層(長さ18km、水平ずれ最大2.7m )とそれに直交する山田断層(長さ7km)を生じた。測量により、地震に伴った地殻の変形が明らかになった。[-1]

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番号 337
西暦 1927/ 10/ 27
和暦 (昭和 2)
震央・M N37.6° E138.7° M5.2
記事 新潟県中部:『関原地震』:局部的強震。傷2、家屋半壊23。宮本村の田圃内に石油ガス噴出口を生じた。

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番号 338
西暦 1930/ 6/ 1
和暦 (昭和 5)
震央・M N36.6° E140.6° M6.5
記事 那珂川下流域:水戸・土浦及び付近の町村で家屋破損などの小被害。

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番号 339
西暦 1930/ 11/ 26
和暦 (昭和 5)
震央・M N35.1° E139.1° M7.3
記事 伊豆北部:『北伊豆地震』:2~5月に伊東群発地震。この月11日より前震があり、余震も多かった。死272、家屋全壊2165。山崩れ・崖崩れが多く、丹那断層(長さ35km、横ずれ最大2~3m)とそれに直交する姫之湯断層などを生じた。

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番号 340
西暦 1931/ 9/ 21
和暦 (昭和 6)
震央・M N36.2° E139.2° M6.9
記事 埼玉県西部:『西埼玉地震』:死16、家屋全壊207。

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番号 341
西暦 1931/ 11/ 2
和暦 (昭和 6)
震央・M N32.3° E132.6° M7.1
記事 日向灘:宮崎県で家屋全壊4、死1。鹿児島県で家屋全壊1。室戸で津波85cm。[-1]

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番号 342
西暦 1933/ 3/ 3
和暦 (昭和 8)
震央・M N39.2° E144.5° M8.1
記事 三陸沖:『三陸地震津波』:震害は少なかった。津波が太平洋岸を襲い、三陸沿岸で被害は甚大。死・不明3064、家屋流失4034、倒壊1817、浸水4018。波高は綾里湾で28.7m にも達した。日本海溝付近で発生した巨大な正断層型地震と考えられている。[3]

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番号 343
西暦 1933/ 9/ 21
和暦 (昭和 8)
震央・M N37.1° E136.8° M6.0
記事 能登半島:石川県鹿島郡で死3、家屋倒壊2、破損143、ほかの被害があった。富山県でも傷2。

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番号 344
西暦 1934/ 8/ 18
和暦 (昭和 9)
震央・M N35.6° E137.0° M6.3
記事 岐阜県郡上八幡付近:八幡町付近で土蔵破損・道路亀裂・崖崩れなどの小被害があった。

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番号 345
西暦 1935/ 7/ 11
和暦 (昭和 10)
震央・M N35.0° E138.4° M6.4
記事 静岡市付近:静岡・清水に被害が多く、死9、住家全壊363、非住家全壊451。清水港で岸壁・倉庫が大破、道路・鉄道に被害があった。

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番号 346
西暦 1936/ 2/ 21
和暦 (昭和 11)
震央・M N34.6° E135.7° M6.4
記事 大阪・奈良:『河内大和地震』:死9、家屋全半壊148。地面の亀裂や噴砂・湧水現象も見られた。

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番号 347
西暦 1936/ 11/ 3
和暦 (昭和 11)
震央・M N38.2° E142.1° M7.5
記事 金華山沖:福島・宮城両県で非住家全壊3、その他の小被害。小津波があった。[-1]

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番号 348
西暦 1936/ 12/ 27
和暦 (昭和 11)
震央・M N34.4° E139.0° M6.3
記事 新島近海:新島・式根島で死3、家屋全壊39、半壊473。崖崩れが多く、26日頃から前震があった。

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番号 349
西暦 1938/ 1/ 12
和暦 (昭和 13)
震央・M N33.6° E135.1° M6.8
記事 田辺湾沖:規模の割には被害が少なく、和歌山県沿岸で家屋小破損など。

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番号 351
西暦 1938/ 5/ 29
和暦 (昭和 13)
震央・M N43.6° E144.5° M6.1
記事 屈斜路湖付近:西岸に被害が多く、家屋倒壊7、死1。[-1]

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番号 352
西暦 1938/ 6/ 10
和暦 (昭和 13)
震央・M N25.3° E125.2° M6.7
記事 宮古島北北西沖:津波来襲、平良港で振幅1.5m。 桟橋流失し、帆船に被害があった。[1]

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番号 353
西暦 1938/ 11/ 5
和暦 (昭和 13)
震央・M N37.3° E142.2° M7.5
記事 福島県東方沖:『福島県東方沖地震』:この後年末までにM7 前後の地震が多発した。福島県下で死1、住家全壊4、非住家全壊16。小名浜・鮎川などで約1mの津波。[0]

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番号 354
西暦 1939/ 3/ 20
和暦 (昭和 14)
震央・M N32.3° E132.0° M6.5
記事 日向灘:大分県沿岸で小被害、宮崎県で死1。小津波があった。[-1]

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番号 355
西暦 1939/ 5/ 1
和暦 (昭和 14)
震央・M N40.1° E139.5°deg; M6.8
記事 男鹿半島:『男鹿地震』:2分後にもM6.7 の地震があった。半島頚部で被害があり、死27、住家全壊479など。軽微な津波があった。半島西部が最大44cm隆起した。[-1]

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番号 356
西暦 1940/ 8/ 2
和暦 (昭和 15)
震央・M N44.3° E139.5° M7.5
記事 神威岬沖:震害はほとんどなく、津波による被害が大きかった。波高は、羽幌・天塩2m、利尻3m、金沢・宮津1m。天塩河口で溺死10。[2]

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番号 357
西暦 1941/ 7/ 15
和暦 (昭和 16)
震央・M N36.7° E138.2° M6.1
記事 長野市付近:長野市北東の村々に被害があり、死5、住家全壊29、半壊115、非住家全壊48。

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番号 358
西暦 1941/ 11/ 19
和暦 (昭和 16)
震央・M N32.0° E132.1° M7.2
記事 日向灘:大分・宮崎・熊本の各県で被害があり、死2、家屋全壊27。九州東岸・四国西岸に津波があり、波高は最大1m。[1]

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番号 359
西暦 1943/ 3/ 4
和暦 (昭和 18)
震央・M N35.4° E134.2° M6.2
記事 鳥取沖:翌日にもほぼ同じ所に再震(M6.2)、 両方で傷11、建物倒壊68、半壊515。

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番号 360
西暦 1943/ 8/ 12
和暦 (昭和 18)
震央・M N37.3° E139.9° M6.2
記事 福島県田島付近:『田島地震』:崖崩れや壁の剥落など小被害があった。

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番号 361
西暦 1943/ 9/ 10
和暦 (昭和 18)
震央・M N35.5° E134.1° M7.2
記事 鳥取付近:『鳥取地震』:鳥取市を中心に被害が大きく、死1083、家屋全壊7485、半壊6158。鹿野断層(長さ8km)、吉岡断層(長さ4.5km) を生じた。地割れ・地変が多かった。

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番号 362
西暦 1943/ 10/ 13
和暦 (昭和 18)
震央・M N36.8° E138.1° M5.9
記事 長野県古間村:死1、住家全壊14、半壊66、非住家全壊20。その他、道路の亀裂などがあった。

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番号 363
西暦 1944/ 12/ 7
和暦 (昭和 19)
震央・M N33.8° E136.6° M7.9
記事 東海道沖:『東南海地震』:静岡・愛知・三重などで合わせて死・不明1223、住家全壊17599、半壊36520、流失3129。このほか、長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった。津波が各地に襲来し、波高は熊野灘沿岸で6~8m、遠州灘沿岸で1~2m。紀伊半島東岸で30~40cm地盤が沈下した。[3]

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番号 364
西暦 1945/ 1/ 13
和暦 (昭和 20)
震央・M N34.7° E137.1° M6.8
記事 愛知県南部:『三河地震』:規模の割に被害が大きく、死2306、住家全壊7221、半壊16555、非住家全壊9187。特に幡豆郡の被害が大きかった。深溝断層(延長9km、上下ずれ最大2mの逆断層)を生じた。津波は蒲郡で1mなど。[-1]

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番号 365
西暦 1946/ 12/ 21
和暦 (昭和 21)
震央・M N33.0° E135.6° M8.0
記事 南海道沖:『南海地震』:被害は中部以西の日本各地にわたり、死1330、家屋全壊11591、半壊23487、流失1451、焼失2598。津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で4~6mに達した。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸で1.27m、 潮岬で0.7m 上昇、須崎・甲浦で約1m沈下。高知付近で田園15kmが海面下に没した。[3]

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番号 366
西暦 1947/ 9/ 27
和暦 (昭和 22)
震央・M N24.7° E123.2° M7.4
記事 台湾東方沖:石垣島で死1、西表島で死4。瓦の落下・地割れ・落石などがあった。震央は国際地震輯報による。

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番号 367
西暦 1947/ 11/ 4
和暦 (昭和 22)
震央・M N43.8° E141.0° M6.7
記事 留萌西方沖:北海道の西岸に津波があり、波高は利尻島沓形で2m、羽幌付近で0.7m。 小被害があった。[1]

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番号 368
西暦 1948/ 6/ 15
和暦 (昭和 23)
震央・M N33.8° E135.4° M6.7
記事 田辺市付近:和歌山県西牟婁地方で被害が大きかった。死2、家屋倒壊60。道路・水道に被害があった。

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番号 369
西暦 1948/ 6/ 28
和暦 (昭和 23)
震央・M N36.2° E136.2° M7.1
記事 福井平野:『福井地震』:被害は福井平野及びその付近に限られ、死3769、家屋倒壊36184、半壊11816、焼失3851。土木構築物の被害も大きかった。南北に地割れの連続としての断層(延長約25km)が生じた。

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番号 370
西暦 1949/ 7/ 12
和暦 (昭和 24)
震央・M N34.1° E132.7° M6.2
記事 安芸灘:呉で死2。壁の亀裂、屋根瓦の落下など小被害があった。

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番号 371
西暦 1949/ 12/ 26
和暦 (昭和 24)
震央・M (08h 17m) N36.7° E139.6° M6.2
(08h 25m) N36.6° E139.8° M6.4
記事 今市付近:『今市地震』:死10、住家全壊290、半壊2994、非住家全壊618。被害は石造建物に多く、山崩れも多かった。

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